第10代 祟神天皇 (すじん)地図
父…開化天皇(第二皇子) 母…伊香色謎命 誕生…前148年(開化10年) 御名・異称…御間城入彦五十二瓊殖尊・御肇国天皇 皇后…━━ 立太子…前130年(開化天皇28年)1.5 即位…前97年(祟神天皇元年)1.13 在位年数…67年 崩御…前30年(祟神天皇68年)12.5 年令…119才 皇居…磯城瑞籬宮 年号…━━ ○これまで天照大神と大国魂神を宮中の大殿に祭っていたのを、神の勢を恐れて、 天照大神を大和の笠縫邑に豊鍬入姫命に託し、大国魂神は淳名城入姫命に託して お祭りをさせた。 しかし国内に疫病が流行し、茅原(桜井市)で八百万神を集め占った結果、託宣を受け、 国は治まった。 この時の巫女が倭迹迹日百襲姫命であり、古代社会における祭政一致の原型といえる ものである。 ○孝元天皇皇子の大彦命(おおびこのみこと)を北陸道、 その子の武淳川別命(たけぬなかわけのみこと)を東海道、 開化天皇の孫丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)を丹波道、 孝霊天皇の皇子吉備津彦命(きびつひこのみこと)を西海道(山陽道)に、 憲(法)を四方に知らしめる目的で、それぞれ遣わされた。 いわゆる四道将軍である。そして、教えに従わなければ伐てとの命も発し、 天皇の地位を明確に周知させ、四道の統治をも目的としたものである。 ○池溝を堀り、田畑に水を引いて農産物の増収を図り、農業に力を注ぐとともに、 初めて船を造る等事跡も多く残している。 |
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陵墓…山辺道勾岡上陵(柳本行燈山古墳) 前方後円墳・堀 所在地…奈良県天理市柳本町字アンドウ ○御陵は、竜王山西麓の緩斜面に立地し、西北面する前方後円墳で、 前方部の比較的短い柄鏡式の墳形を示し、三段築成である。 全長約242m、後円部径最大約158m、高さ30m、前方部幅102mの規模である。 葺石(古墳の外装)の存在が認められ、埴輪については未詳であるが、 存在は確実である。 後円部頂上に径約13mの盛土状高まりがあり、ここに主体部の存在が推定できる。 東接して所在する櫛山古墳が、竪穴式石室に長持形石棺を内蔵する古墳であることから 同様の主体部構造である可能性が高い。 ○墳丘周囲の水濠は段々となり、墳丘が丘尾切断式であるので、 周濠は後世に付加されたと推測される。周濠幅が一定せず、前方部正面水濠内 に小円墳が存在するのは陪墳であり、西接南面する陪墳の前方部の一部を破壊して 外堤を築造している点も理由になる。 ○西方約100mに、道路切断された天神山古墳がある。木棺内に多量の銅鏡と朱が 副葬されていた。 ○1850年(嘉永3年)の濠の改修工事中に、 内行花文が表現された特殊銅板が発見され、現在その拓影が宮内庁に保存されている。 陪墳を有し、三段築成の巨大前方後円墳であるから、大王墓である可能性が強く、 祟神天皇は実在天皇の最初の人と従前から指摘されている。
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水濠は段々になっており、 土手の上にも水濠がある。 江戸時代天皇陵の整備の名のもとに、 柳本藩は補助金を得て堤を築き、 農業用水として利用できる構造にした。 陵は山の高台(傾斜)を利用して築かれている ため、水豪の途中に、 仕切りとしての役目の土手を築かなければ、 構造上水の確保が難しい。 |
水濠に浮かぶ陪塚? | 左から、アンド山古墳、行燈山古墳(崇神天皇陵)櫛山古墳 | |
主体部 中円部頂上の中央から主軸に直交して築いた堅穴式石室が見つかっている。割石を小口積で 築いた石室は、南北長 7.1m、幅 1.4mほどで、内部から組合せ式石棺の残骸が2片出土してい る。石棺は石室底面からさらに長方形の落込みを掘りこんで納めており、粘土床を築いて木棺 を納めた石室とは構造が異なっている。 |
崇神、垂仁、景行の三帝は三輪山麓に宮居したところから、三輪王朝と呼ぶ。そして崇神の御名をミマキイリビコ、垂仁帝をイクメイリビコと言い、 皇子・皇女にイリビコ・イリヒメと入(イリ)のつく御名が多いところから、イリ王朝とも呼ぶ。この家系は第14代仲哀天皇で応神天皇(河内王朝) へバトンタッチする。 |
崇神天皇陵⇒⇒⇒ | ||
崇神天皇陵から景行天皇陵へ⇒⇒⇒ | ||
全動画⇒⇒⇒ | 天理から桜井の順⇒⇒⇒ |
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