唐古遺跡地図
鏡作坐天照御魂神社地図
鏡作伊多神社・保津地図  
鏡作伊多神社・宮古地図
鏡作麻気神社・小阪地図
鏡作神社・石見地図
安養寺地図
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唐古遺跡

   
2000年前の楼閣の描かれた土器片と復元された楼閣 
   
2200年前に建っていた大型建物跡と唐古池 
 

 この場所は、弥生時代前期以来の谷地形が徐々に埋没して
後期頃までくぼ地となっていました。このくぼ地は大量の土器と

ともに埋没しているのですが、その中から全長5.3 cmのヒスイ

製勾玉が出土しました。新潟県南部の姫川流域でとれたヒスイ

原石を加工したもので、 弥生時代最大級です。 

「唐古·鍵遺跡」

 唐古·鍵遺跡が存在したのは、弥生時代、山の辺の古墳群が作られた直

前の時期と考えられている。弥生時代は紀元前4~5世紀から2~3世紀

にわたる農耕中心の時代で、その遺跡は県内で400程ある。大半は盆地

の東南部に多く存在する。唐古·鍵遺跡はその一つで、ほぼ弥生時代全期

に存在した大型の拠点集落の一つであった。

 集落の構造は、東西600メートル南北700メートルの規模で住居跡

や方形の周溝墓もあり、村の周りに多重の環濠が巡らされていた。環濠の

もつ意味は、低地帯の為の洪水対策、交通手段(運河)、敵からの防御、

或いは村の共同体意識を高めるためなどが考えられている。微高地には高

床式の最も古い建物とされる棟持柱(むなもちばしら)で支えた総柱建物は
生活空間のない
(遺物が出てこない事から)場所に建てられていたようだ。
微高地の中で
も神聖な場所やそうでない場所の住み分けがされていたと
想定される。

 出土した絵画土器には寄棟造りの大型建物に加えて、楼閣の高層建築物

が描かれている。場面をイメージして描かれたものだとすると今後の発掘

で楼閣の建物が出てくることも考えられる。石製の銅鐸の鋳型や土型銅鐸

鋳型外枠も出土している。これら銅鐸の制作場所が公害や火災を予防する

などを考慮した場所にあり、すでに都市計画的なことがなされていたよう

だ。青銅の原料を持ち込むことができ、その鋳造を専属にする高い技術の

銅鐸製造集団を抱えていることからも、唐古·鍵はかなり力を持っている

集落であったといえよう。さらにヒスイ勾玉の褐鉄鉱容器が出土している。

一部が欠け、ヒスイ大型勾玉2個と土器片が詰められていた。

この褐鉄鉱は中空で良質の粘土を核として周囲に鉄分が凝結し、その
粘土が収縮することにより
生成されるもので、中の粘土は中国では
「禹余糧(うよりょう)」と呼ばれ、
薬として用いられた。道教の中に「殻の中
の粘土を食すると不
老不死になる」という教えがある。実際、奈良の正倉院
の「種々
薬帳」の中には薬として保存されている。つまり、唐古の弥生人が
中国の道教を知っていて埋納した可能
性が考えられるのである。楼閣の建物
をはじめ、道教の思想などの精神的
なものまで中国のものを取り入れていた
集落であったのではないか。集落
が地域の中心というばかりでなく、中国大陸
と交流していたことも推測さ
れる。

 唐古·鍵の集落が近畿と大陸とを結んでいた集落であり、やがて、

時代、奈良時代へと繋ぐ役割も果たしていたのではないか。

 いずれにせよ、唐古·鍵遺跡は大和政権の生まれる直前の時代の遺跡と

いうことができよう。
黒田大塚古墳⇒⇒⇒


  

  山の辺文化会議 文化講座(第28号:平成19年度) 
   田原本町教育委員会課長補佐藤
田三郎

唐古·鍵遺跡*所在地 田原本町大字唐古及び鍵

 唐古·鍵遺跡は奈良盆地のほぼ中央、寺川と初瀬川に挟まれた沖積地に立地する弥生時代の
大集落遺跡です。1936-7年、末永雅雄博士らによって唐古池の第1次発掘調査がおこなわれました。
この調査で出土した木製品や炭化米など様々な遺物は、弥生時代の総合的な認識をもたらし、
学史的に著名な遺跡となっています。遺跡は、標高50mの水田下に弥生時代の遺物包含層があり、
弥生時代前期から古墳時代前期にいたる約700年間の遺構遺物が保存されています。
環濠に囲まれた遺跡の面積は約30万㎡で、弥生時代で最も大きい集落の一つです。集落内部では、
高床・堅穴住居、木器貯蔵穴や井戸などの遺構が検出されています。また、出土遺物では、 土器、
石器、 木器など弥生時代にみられる各種遺物があります。特に重要な遺物として銅鐸の鋳型など

の鋳造関係遺物や桜閣の描かれた土器があります。

  動画    唐古・鍵遺跡⇒⇒⇒
全動画⇒⇒⇒ 


鏡作坐天照御魂神社
 
中座 天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかり)
右座 石凝姥命(いしこりどめのみこと)
左座 天糠戸命(あめのぬかどのみこと)
 治工(たくみ)の里 鏡作神社界隈

 田原本町の唐古·建遺跡は弥生時代の集落遺跡としてよ

く知られている。この遺跡から銅鐸の鋳型片や銅鐸型土製品、フイゴ羽口が出土して

いることから、この集落に銅鐸製作にたずさわった工人が居住していたとみられる。

一方、この南の同町八尾には式内社鏡作天照御魂神社がある。そのほか、同町小阪

に鏡作麻気神社、同町保津には鏡作伊多神社、三宅町石見に石見鏡作神社があって、

この付近が古代の城下(しきのしも)郡鏡作郷の地とみられる。鏡作天照御魂神社の
御神体は唐草文 体三神二獣鏡で、崇神天皇の時代に、この地で内侍所ー八咫鏡を
安置するーの神鏡が 鋳造されたときの試鋳の鏡という伝承をもつ。このようなことから、
唐古から鍵にかけての一帯は、銅鐸·銅鏡の製作者たち、つまり倭鍛冶とよばれた治工
の里とみてまちがいはあるまい。このあたりを歩くには、近鉄橿原線の石見駅で下車し
て東に向かえばよく、一○分ほどで下ッ道の走る西代という集落に出る。西に歩をとれ
ば、大子道にも歩いて一五分ほどの距離である。

   

鏡作神社(鏡作座天照御魂神社)

 創建は第10代崇神天皇の御代三種の神器の内の「八咫鏡」を鋳造せる神々の祖を祀る神社で延喜式内大社である。

鏡作坐天照御魂神社 田原本町大字八尾字ドウズ 旧郷社
祭神 天照国照彦火明命・石凝姥命(いしこりどめ)・天糠戸命(あめのぬかど)

 近在に宮古・鏡作伊多神社、保津・鏡作伊多神社、小阪・鏡作麻気神社、石見・鏡作神社があり、これら所在地は「和名抄」 の鏡作郷
延喜式神名帳 「城下郡の項に「鏡作坐天照御魂神社 大月次、新嘗」

文献初出    天平二年(720)大倭国主税帳(正倉院文書)二十五束

          大同元年(806)大和国で二戸、伊豆国で十六戸神封「新抄格勅符抄」

          貞観元年(859)従五位下より従五位上に昇位 「三代実録」

          神主 主水直の家に伝える「阿可理薬」の事が記載。「大同類聚方」

          天保年間(1830-44) 社前の拍犬を大坂の鏡屋中が奉納

                   「在八尾村与宮古、但馬、黑田、岩見、今里、西代、

                   新町村共預祭祀、社傍有鏡池池今乾涸」と

                                           「大和誌」 

   
拝殿 
御鏡(內行花文八葉鏡)

 拝殿にございます御鏡は、国内で発掘された最大の館(国宝・一説に八咫鏡とされる)が、
素材・大きさ・裝飾に至るよで、完全に再現されたものでございます。

 鏡作大明神のもとに復活した御鏡の御前にて、御参拝下さい。

     鋳造 上田合金株式会杜 故上田富雄氏 

 
 三神二獣鏡 
(御神宝)

古代の鏡

 延喜式内大社である鏡作神社には、 唐草文帯三神二獣鏡が神宝として祀られている。社伝では崇神天皇が内侍

所の神璽の鏡を鋳造させた時の試鋳の鏡を御神体として祀っているとある。実際に伝わる鏡は三角縁神獣鏡の外

区の欠落したもので、中国製の鏡と考えられている。 この地を本貫とする鏡作氏は、古くから鏡鋳造をおこなっ

ていたと伝えられる。江戸時代には、鏡職人が境内の鏡池で鏡を洗い清めたといい、 現在でも全国の鏡業者の信

仰を集めている。なお、神社の北側500mにある唐古鍵遺跡では、青銅器の鋳造関連遺物が多く出土しており

古代の鋳造集団との関連も注目される。   

 
 
鏡作坐天照御魂神社 鏡石について

 この鏡石は江户時代に前の鏡池より出土したもので古代の「鏡」製作時、近辺の鏡作娜より粗鏡の仕上げ即ち
鏡面の研磨工程時使用された用具と推察される。

 鑄造面を「鏡面」への研磨時、この鏡石の凹面に 粗鏡を固定し上方ら水を流し乍ら、二上山の麓より採取した
金剛砂等で、「平面加工」や「鏡面加工」を施した時の用具かと老察 される。

  文 堀内篤夫 

 

 神仏習合 の思想 により当社にも明治淮新まで神宮寺が 置 か れ て い ま し た 。
「飯趣山神宮寺聞楽院」 と い う真言宗 の 寺院です 。 そ の 名 残 で ある 鐘楼が境内

に晛存しています。吊鐘は寬政七年の銘があり ます。 

 
 郷中は17自治会
 大和平野の真中、大和川の支流寺川の西側に約干七百年前、当社は創建されま した 。

 上代人が己が魂の宿るも の と し て最も崇敬尊重し た鏡を製作するこ とをとし てい た鏡作部がこの 地一帯に
住居し、大和朝廷に仕えていま し た 。

 第十代崇神天皇の御代に、三種の神器 の一つである八咫鏡を皇居(磯城瑞籬宮桜井市金屋) にお ま つりす る
こ と は 畏 れ多いと し て 別 の と こ ろ に お ま つりするこ とに なり(伊勢神宮の起源)、皇居に別の御鏡をつくる
こと に なりました。
そこで天皇の命にょり石凝姥命の子孫である鏡作部が崇神天皇六年九月に、この地において御鏡を鋳造しました。
これを内侍所の神鏡と称します。 

 その 鋳造にあたって試鋳した御鏡を天照国照彦火明命(中座)と称えてお祀りしました。 併せて遠祖である
石凝姥命(右座)並び にその親神である天糠戸命 (左座)を氏神としてお祀りいたしました。

これが当社 の 起源 です。

 天照国照彦火明命は皇祖天照大御神の皇孫で邇々芸命の兄上に当た る神様 です。石凝姥命は天照大御神が
天の岩屋戸にお隠 れに なった と き神々の相談により鏡をお作りになった神様 です。また 天孫降臨のと き に
週々芸命にお伴した五部族(天児屋命布刀玉命天宇受売命伊斯許理度売命玉祖命)の神の一神です。
以上の由緒により江戸時代から全国の鏡業界の信仰厚く現在に至っています 。

 な お、神仏習合 の思想により 当社 にも明治維新まで神宮寺が置かれていました。

「飯趣山神宮寺聞楽院」 と い う真言宗 の寺院です。 その名残りである 鐘楼が境内に現存しています。

吊鐘は寛政七年の銘 があり ます。

   
 摂社  若宮神社
祭神 天八百日命
右座から春日大社、住吉大社
手力雄神社、天照皇大神宮  
   
  左 鍵取神社 右 笛吹神社 狭依姫神社 
   
稲荷神社 愛宕神社   猿田彦神社
大国主神社
保食神社
厳島神社
事代主神社
粟島神社
八意思兼神社 
   
     
   正一位鏡作大明神   
   

田原本町 町·村の歴史 大字 八尾

 当「八尾村」は古道「下ツ道」 中世の 「中街道」沿いにあり、 街道沿いを常盤町、 そ

の西の集落を本村と謂ひ、その全体を八尾村と称した。 古文書には、「八百村」と記し

たのもあるが、近世は八尾村と記す。 本村は農業を主体とした村落、 常盤町は医師や

職人、酒造等商業を主体とした集落で双方一体して八尾村が構成され、 江戸時代は

大和郡山藩に属して居た。

 村の西には約90町歩の田畑を擁し、今の近鉄田原本線の西側まで八尾領である。 そ

の為、近辺では最大の溜池を擁し、田畑を潤していたが戦後、土地開発の波に乗り、

その多くが市街化し住宅が建ち、 西八尾や南八尾等、五つの自治会が設立され、 八尾

から分離独立して貰っている。

 古文書に拠れば、 昔、 八尾村は戸数170戸 人口760人程だったが、 現在八尾自治

会だけでも650戸、 外の八尾領内の五自治会を合わせると約1500戸近くになる。 尚、 隣

の新町村は元和年間に八尾村よりの分村とある。  

 
 御田植祭用 
   
  動画    鏡作坐天照御魂神社⇒⇒⇒
全動画⇒⇒⇒ 

稲荷神社地図
   
   
出世稲荷大明神  扁額  正一位豊雛大明神 



鏡作伊多神社・保津
   
延喜式内社 旧十市郡 保津 鏡作伊多神社 
祭神 石凝姥命(いしこりどめ)
 
 
 
左 北本殿 右 南本殿 
 
 
  延喜式内社 旧十市郡 保津 鏡作伊多神社

祭神 石凝姥命(いしこりどめ)南本殿は文化年間(1800頃)の「隅木入春日造」の珍しい手法の春日造

 保津・鏡作伊多神社は大字保津環濠集落の南西端に鎮座し、保津環濠集落北側、道路・

水路を挟んで、約150m北に·宮古鏡作伊多神社がある。保津と宮古の間の道路·水路を境

に保津は十市郡、宮古は城下郡で、この道路·水路は整然とした大和国条里に沿わず、西は

大字富本から南南東に太子道·下ッ道を横切り、村屋座彌宮都比売神社の中ッ道まで延びる

仮称阪手道(磯城下横道)で、太子道·下ッ道の交わる重要な場所に保津·鏡作伊多神社が存在する。

 保津集落は近世以前には、現在の集落の東側、中垣内、奥垣内にあり、大正 12年(1923)の

磯城農学校の敷地造成時に採土され、現在集落跡の畑地は少なくなっているが、屋敷地の面

影は残っている。平成18年の奥垣内の西、宮古池東堤改修工事時に、集落跡に伴う、檜曲物

井戸枠が数基出土している。又、保津,鏡作伊多神社も、近世以前の保津集落の約200m東、

小字「伊多敷」にあったと推定される。

 北本殿 基壇上に、二殿並び建ち、旧は檜皮査、現在銅板で覆う春日造で、千木、勝男

木、向拝角柱、向拝との繋部分は直材、軒廻りは二軒本繁垂木、正面扉口は方立柱を立て、

向拝柱に斗拱を組み、象鼻を取り付ける。身舎は角柱で土台上に建ち、登階 5級、 三方に縁

を廻し、脇障子を付ける。

 南本殿 旧は槍皮葺、現在銅板で覆う春日造で、 千木、 勝男木、向拝角柱、身舎との繋

材はなく、珍しい手法で、向拝虹梁を組み象鼻の木鼻を取付け、向拝柱に斗拱を組み、象鼻

の木鼻を取り付ける。身舎は円柱で土台上に建ち、 軒廻りは一軒本繁垂木、正面扉口は方

立柱を立て、登階は7級、三方に縁を廻し、脇障子を付ける。 この南本殿は「隅木入春日造」

の珍しい手法の春日造である。境内に文化二年(1805)の石燈能と、天保六年(1835)の狛犬がある。


保津の環濠集落

 農家は古くから条里制と環濠集落

の中に生活した。環濠の形態は様々

であるが、保津のものは最も単純な

形式で、集落全部を環濠しており、

一部支濠を持つものもある。集落内

部は迷路が多く、内部からの出口は

限られていて、これを木戸と呼び、

明治中期まで門番をおいて引き橋が

かけられていた。農産物や家財道具

を外敵から防くための農家の小さな

城であった。

 
 



鏡作伊多神社・宮古
 
延喜式内社 旧城下郡 宮古鏡作 伊多神社
祭神石 石凝姥命  境内社 布屋(富屋)神社
   
   
 水乃神社
住吉神社
稲荷神社 

延喜式内社 旧城下郡 宮古鏡作 伊多神社

祭神石 石凝姥命  境内社 布屋(富屋)神社

 宮古。鏡作伊多神社は大字宮古集落の南端、宮古池の西に鎮座し、神社南側、道

路・水路を挟んで、約150m南に保津・鏡作伊多神社がある。

宮古と保津の間の道路・水路を境に宮古は城下郡、保津は十市郡で、この道路·水路は
整然とした大和国条里に沿わず、西は大字富本から南南東に太子道·下ッ道を横切り、
村屋座彌富都比売神社の中ッ道まで延びる仮称阪手道(磯城下横道)で、太子道·下ッ道
の交わる場所では、奈良時代以降の交易の場所である巷(ちまた)又は、役所に伴う遺構
等が見つかっている重要な場所に鏡作伊多神社が存在する。現在の本殿・拝殿とも平成9
年の台風の被害により、新しく建て替えられ、本殿は一間社流造、千木、勝男木。

 本殿の北側に、布(富)屋社があり、獲屋の中に板葺本殿、前に「ロ屋大明神」の石燈

龍があり、この布(富)屋社が本来の鏡作伊多神社とも伝えられている。尚、現在、 浄蓮寺

に安置されている大日如来坐像は元布(富)屋社又は鏡作伊多神社の本地俳である。

境内には、元禄三年(1690)、文化二年(1805)の石燈籠、文化六年(1809)の狛犬もある。 

延喜式内社 平安時代の延長五年(927)に纏められた「延喜式」の巻九・十に記載された
全国 2861社・3132座の神社「管社」の一覧表で国・郡・祭神・社格が記載されている。
田原本町には、55の神社があり、その内 16 社、 29%が延喜式内社で、 さすがに、
大和朝廷発祥の国、 郡だけある。この宮古鏡作神社も16社の内の1社である。



鏡作麻気神社・小阪
 

延喜式内社 旧城下郡 小阪 鏡作麻気神社(かがみつくりまけ)

祭神 麻比止都称命

 祭神の麻比止都称命は、日本書紀に「作金者」と記される「天目一箇神」であり、

鍛治に関わる神とされる。この事は、弥生時代、唐古·鍵遺跡で、銅鐸など、金属鋳

造技術集団が、古墳時代になり、鏡作部に継承され、この鏡作郷の地で、金属鋳造が

行われてきたのであろう。 現在、 大阪府の東大阪を中心とした小阪·今里·八尾で、

金属加工業界が多いが、 この金属加工の人々の先祖は、大和の田原本付近だと伝え

られ、田原本町にこれら小阪・今里・八尾の地名が共通する事と関係するかもしれない。

鏡作麻気神社の建築について

 元、「子安大明神」であったが、神仏分離後の明治2年(1869)社名を変更したと伝え

られる。1間社隅木入り春日造銅板葺、千木,勝男木付の社である。

 基壇上に建ち、土台を廻し、身舎丸柱、柱上部綜付、大斗,三ッ斗組、向拝、柱方

柱面取り、柱天端大斗, 連三ッ斗組、虹梁、象鼻、中備蟇股、身含とは海老虹梁で繋

ぐ。軒廻り1軒繁垂木、三方に縁を設け、背面に脇障子、跳高欄、昇高欄、宝珠柱付、

木階9級、正面中央には、格子戸両開きの建具を用い、他面は板壁である。拝殿 

奥の一段高い所に建築されているが、隅木入り社殿は珍らしく、全体に成の高い社

殿で、明治頃の建設かも知れない。

 文田原本町文化財

 保護審議委員会

 会長 林清三郎 

 
   
   
   
鏡作麻気神社社殿   鏡作麻気神社取調書上帳

小坂村,繪圖(明治3年。1870)



観音堂
 

第十一番 小阪・旧観音寺・観音堂 本尊十一面観音菩薩

旧観音寺は 鏡作麻気神社(麻比止都称命)の神宮寺で

観音寺・本地堂(観音堂)の本尊十一面観音菩薩立像は

像高65.4cm、檜材の一木造りで平安時代後期12世紀

前半の藤原佛で処々に漆を盛っている。

本尊台座は榧材で元禄元年(1688) 作、本尊厨子は扉

に「和州城下郡小坂邑観音寺元禄二乙午歳八月吉祥日」

とあり、この時期に本尊が修復されたらしい。

観音堂にはこの他に鎌倉時代の地蔵菩薩立像、室町時代

の如来立像2体、地蔵菩薩立像1体、誕生釈迦如来立像1

体等があり、観音寺の歴史の永さを伺うことが出来る。

なお、この観音堂十一面観音菩薩立像は、江戸時代より

大和三十三ヶ所の第三十一番札所で御詠歌に「ちりの世

を小坂にはろふ松風はねがふみ国の しらべとぞ聞く」

と詠われている。 

 
   

左 鏡作麻気神社取調書上帳小坂村(明治3年)に

「ー 本地堂二間四方 但十一面観音安置」

「ー 薬師堂間口奥行丈間 但薬師如来安置」

とあり、明治3年頃、鏡作麻気神社の境内に神宮寺

が南面して西に本地堂(現 観音堂)、その東に薬師

堂がありそれぞれ、十一面観音菩薩立像、薬師如来

像が安置されていた。  

 



鏡作神社・石見

   
   
石見 鏡作神社

 平安中期に著された延喜式にも当神社の

名が見られ大字石見の氏神として古き由緒

ある神社である。

 鏡作神社の由来は、古事記にある天の岩戸
神話に天照大神が天の岩戸にこもられ

因った神々が相談し、天の香久山の榊の中一

枝に吊り下げた八咫鏡云々とあるが、その

鏡を鋳造したのがこの神社の祭神石凝姥命

である。よって、鏡作神社と呼ばれるように

なった。そして、鏡作工人の祖人とされてい

る。鏡作神社がこの地にあるのは、日本神話

の歴史上大切な誇りとすべき神社である。

 三宅町教育委員会


条里の森

 条里制は、古代の土地区画制で、律令制が完成された

奈良時代に整備されたと考えられています。

 東西·南北各六町(約六五〇m)の間隔で土地を「里」

とよぶ方格に区画し、東西列を条、南北列を里と数え、

さらにこの一里を三六の方一町の「坪」に細分し、何条何

里何坪と呼んでいました。

 その条里の界線の交点付近に緑の森をつくり、大和の

風土の一つをしのぶとともに、都市環境にうるおいを与

えるのが「条の森」であります。
 三宅町教育委員会

 

 
 徳松大神


環濠集落
 
環濠集落

 この地域は一帯に低湿地であったので、集落の周辺に濠

を堀り回らして塁をつくり外敵から集落を守るのに役立って
いた。

 外部との通行はその都度掛橋を移動していた。

 その後は溜池代わりにつかわれた。

三宅町教育委員会





安養寺地図 
   
法性山 専求院 安養寺 (ほうしょうざんせんぐういんあんよう)

 寛永10年(1633)の創立。名僧行基の開山。寺川の東側にあったが、洪水のため、
江戸時代中頃現在の位置に移されたと伝えられている。寺内には名匠快慶
阿弥陀如来立像「建仁年間」(重文)が安置されている。境内には約400年前天文2年

(1533)銘の石仏もあって古くから由緒をもっている。 

   
安養寺(浄土宗)創建は寛永年間国の重要文化財の快慶作 「阿弥陀如来立像」は有名である。 
   
  安養寺の沿革
 当寺は寛永十年(1633) に源蓮社宝誉上人の
開祖で山門を入って正面に本堂 (宝永三年· 1706)、右手に地蔵堂 (享保十七年.1733)、
左手前に鐘楼、左奥に庫裏があり、 寺地北が墓地となっている。
安養寺本尊は阿弥陀如来坐像 (安土桃山時代)で本尊とは別に鎌倉時代 前期国重文
阿弥陀如来立像客仏が秘仏本尊として祀られて来て、 当寺と寺川を挟んだ東側に在った
廃浄国寺の仏像と伝えられる。
   
   




 二階堂地蔵堂 膳夫寺跡跡 地図
   
 二階堂地蔵堂 膳夫寺跡跡

 ごの地蔵堂の前を通る南北の道路は下道、現在、中街道と呼ば呼ばれている。
ここから東へ延びる道は、布留街道、現在市道一号線で、この東百m程のところ
に布留社(石上神宮)の一の鳥居があった。ここは古代からの交通の要衝として
発達した。

 この付近に膳夫寺があった。この寺の堂が、二階造りに似ているところから
二階堂と名づけられたと伝わる。今も二階堂,二階堂下、二階堂筋 の小字名を
留めている。