28 纏向之 桧原もいまだ
歌 柿本人麻呂 巻10−2314 筆 山本健吉 地図 |
巻向之 桧原毛末 雲居者 子松之末由 沫雪流 |
まきむくの ひばらもいまだ くもいねば こまつかうれゆ あわゆきながる |
纏向之 桧原もいまだ 雲ゐねば 子松か梢ゆ 沫雪流る |
桧原の空は雪雲におおわれていない。だのに沫(あわ)のような 雪が流れてきて松の梢にちらつく。 大量の冷たい雪ではない。水のあわのような雪とは、もう春がそ こまできている時の雪であろうか。 桧原は、人麻呂にとって死者を傷むばかりでなく、心なごませる ものも持っていたようである。 |
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一説によると、「土俵」は1枚の田んぼを表し、「相撲」は、田 の害虫,害鳥・害獣を田んぼの外へ追い出す神事の一つという。 |
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野見宿禰 |
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垂仁天皇七年七月七日野見宿祢、當麻蹶速による我が国初の天覧相撲が行われたと日本書紀」に
記されいる。 境内地には勝者宿禰公を称える 「勝利の聖」の石碑も建立され,勝負事に縁起の良い場所として人気ある。 カタヤケジ由緒
今を去る上古約二千年前垂仁天皇七年七月乙亥.(七日)大兵主神社神域内小字カタヤケシにおきまして野見宿彌、 爾来相撲が国技として国家大本の行事とされ悠々の今日に至っています。 日本書紀に「野見宿彌は乃ち都に留りて仕へまつる」とあり当地に屋敷を賜わり古代国家草創期における |
相撲神社の社殿あり |
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