香具山(かぐやま)地図
大和三山の中で最も神聖視されてきた。登山口は六つある。 |
この山は青香具山(あおかぐやま)ともいわれる緑濃い山で、 白妙の衣干す山として有名である。 |
古代より神聖な山として、信仰の対象であったようである。 北東の山腹には天香山神社、山頂には国常立神社(くにとこたち)、 南腹には上ノ御前・下ノ御前、南麗には天岩戸神社が残されている。 天照大神が居る高天原を地上に下ろしたのが天香具山といわれる。 天香具山は地上における高天原という。 一方、天照の孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が降臨した高千穂峰がある。 |
香具山は標高約152m。”神が天降る 山”とされ、天香具山とも呼ばれるこ の山には『古事記』にまつわる古社がいくつも鎮座します。北麓には占いの神を 祀る天香山神社、南麓には天岩戸神話が残る天岩戸神社、山頂には天地の根 源神を祀る国常立神社、山腹にはイザナキ、イザナミを祀る上の御前と下の 御前。 小高い丘のような山頂までは登山口から歩いて約10分。厳かな神の森で軽い 山歩きを楽しめば、『古事記』の聖地が巡れます。 |
甘樫丘から望む。左耳成山、右香具山。 |
上記看板の「現在地」 付近の登山道 |
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大和王権の権力基盤を固めた磐余で三輪山を拝し、磐座に神が降臨するというイメージをつくった。 磐余から飛鳥に移るにしたがって聖なる山が三輪山から香具山(152.4m)に変わっていった。 高天原の物語に天香具山が登場し、神話の高天原と天香具山が結ばれる。 それから飛鳥京、藤原京と都を移した天武・持統朝に、王権の権力や権威はゆるぎないものになった。 天武は王朝の正統性を明確にするために歴史の見直しを命じた。それが、古事記(712)、日本書紀(720)であった。 |
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耳成山・畝傍山は独立しているのに対し、香具山は、南北に翼を広げた形状をしており、 多武峰(とうのみね)山系から延びた尾根が侵食されてできた。二つの山に比べて山形がわかりづらい。 しかし「天」という字をつけて天(あめ)の香具山と呼ばれるのは、この山が高天原から下ってきた天香具山と考えたからである。 それは、横大路が東西に走り、寺川の流れもあり交通の便に恵まれたことにより、 多くの天皇の宮が置かれた磐余の地が、政治上重要な地であった。この地が天香具山(東北の位置)に接していたことによって、 大和王権の始祖伝承とむすびついてきた。 |
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磐余の宮
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紀寺跡付近より見た香具山、この辺から見ると形がよい。 撮影ポイント |
大官大寺跡から真北に香具山がある。地図 その他、伝飛鳥板蓋宮跡から見ると⇒⇒⇒ |
舒明天皇の長歌として、この山に登って作った歌に、 大和には群山(むら)あれど、 取よろう天(あま)の香久山 登り立ち国見をすれば 国原(くにはら)は煙立ち立つ 海原(うなはら)はかもめ立ち立つうまし国ぞ 秋津島大和の国は (万葉集巻1-2) (大和にはたくさんの山々があるけれど、天香久山に登り大和の国を見おろすと、 平野部には煙が立ちのぼり、水面には水鳥が盛んに飛びかっている。大和の国は本当に良い国だ。) 支配者は山や丘など高い所に登り、国見をし国讃めをした。そうすることで母なる大地を喜ばせ、その言葉自体のもつ力とあいまって、 大地の豊かな稔を産出させる。
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春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣干したり 天の香具山 (持統天皇 巻1 28) 百人一首2⇒⇒⇒ ひさかたの 天の香具山 この 万葉集中、大和三山の中でもいちばん多くの歌が残されている。 香久山13、耳成山6、畝傍山3。 香具山の名は、万葉集や記紀などに数多く登場する。香来山、芳来山、香山、高山、芳山、など表記された。 |
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舒明天皇が香具山に登って国見をし、香具山が選ばれた理由に、この山が中ツ道の線上に位置することが重視されている。 逆に香具山が重視されるがゆえに、中ツ道設定の基準としたとも云われる。 |
岩穴を御神体とし、神殿はなく、 拝所のみという古代人の原始的な祭祀形態を残 している。玉垣内には、真竹が自生するが、 これを往古より七本竹と称し、毎年七本ずつ生え変 わると伝えられている。 |
七本竹 橿原市南浦町 天岩戸神社の境内に湯笹薮がある。女笹竹とも七本竹ともいう。 のが七本になったという。 |
天岩戸神社(あまのいわと) 祭神 天照大神 |
天香具山南麗、南浦集落のほぼ中心に南面にて鎮座し、天照大神を祀る。 「古事記」「日本書紀」の神話にみられる天照大神の岩戸がくれされた所と称し、 今もなお巨石4個があつて、大神の幽居した所と云える。 |
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天の岩戸 橿原市南浦町 天の香久山の南側に天岩戸神社がある。神殿がなく岩穴がある。天照大神をまつっている。 |
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国常立神社(くにとこたち) | ||
祭神は國常立命(天地開闢とともに現れた国土形成の神) 俗に雨の竜王と称され、 境内社として高靇神(たかおおかみ・竜王神)を祀る。 向って右側神殿の前に壺が埋められており、 古来干天の時この神に雨乞いして壺のの水をかえたが、 まだ降雨のない節はこの社の灯明の火で松明をつくり、 村中を火振りして歩いたという。 |
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末社に上の御前と呼ぶ伊弉諾神社と下の御前と呼ぶ 伊弉冊神社があり、天香久山の東山麓に鎮座する。 |
天香山神社(あめのかぐやま) |
神殿の背後に神話の天の岩屋戸に見立て られる巨岩がある。 |
春日造りの神殿 | 天香久山の北側の天香山神社の神殿背後 にある花崗岩(かこうがん)の巨岩は三つあり、 天の岩屋戸に見立てられる |
祭神 櫛真知神(くしまち) 元名 大麻等地神 櫛は奇(不思議)真は兆(占い)の古語にて、神武天皇記に、 天香山の社が見え創建古し。占いの神。 末社 春日神社 八幡神社 |
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天の眞名泉 | 波波迦(はばか・ははか)の木 | |
いばら科の木で朱桜(にはざくら)うはみずざくら、こんごうざくら、かばざくら、かにわざくら等の別名がある。 古事記によれば、この木の皮で香具山の雄鹿の骨を焼いて吉凶を占った。 ―天の岩戸― 天児屋(こやね)命と布刀玉(ふとたま)命とを呼んで天香山(かぐやま)の男鹿の肩骨をそっくり抜いて来て、 天の香山の波々迦の木を取ってその鹿の肩骨を焼いて占わしめました。 平成二年の大嘗祭関連の諸儀式で「斉田点定の儀」の亀占に用いるため、波波迦を宮内庁の御下命により奉納された。 |
拝殿扁頫について 当社のご祭神は櫛真命 (くしまのみこと) と申します。平安時代の延喜式神名帳(西曆九二七年)に『大和国十市郡 天春山坐櫛真命神社(元名 大麻等乃知神)大月次新嘗』と記載されています。 同祭神を祀る他の神社や古文書には、久慈真智命、櫛真智命など「くしまち」として記されますが、いずれも同じご祭神てあるとされています。 ご祭神は神意を伺う占いの神てあり、国家の大事を判断する亀卜や、天皇陛下即位の大嘗祭に行われる神饌田ト定に関わる神とLて、重んじ 当社が鎮座する天香具山は、古事記、日本書紀、万葉集など多くの文献に、神々や日本国創始との関わりが多く記されていることから、我が国 天香山神社は、この天香具山 と一体に櫛真命を奉祀申し上げ、代々氏子崇敬者が奉護して参りました。 此度、拝殿扁額古損のため、延喜式に記載の社名、当社とゆかりの深い神武天皇を祀る橿原神宮の宮司久保田昌孝 樣上り揮毫をご快諾頂き、 当社氏子南浦町米虫一起氏奉纳にて、拝殿王面へ掲揚致LまLた。また拝殿内の正面扁颖は、当社氏子一同の奉纳にり掲 揚致LまLた。 皆様方には天香具山のご神気をお受け顶き,活力を大いに発揚され、穏やかに満たされた日々をお進め頂きますよう、お祈り申し上げます。 平成二十七年 _九月吉日 天香山神社 宮司 謹言 |
天香具山の波々迦の木⇒⇒⇒ | |
全動画⇒⇒⇒ |
天香山白埴聖地の碑 西の登山口にある。 |
天香山赤埴聖地の碑 天香山神社にある。 |
香久山は良質の埴(はに・粘土)産地で、 香久山の埴で八十平瓮(やそひらか・皿状の神器)を焼いた。 赤埴と白埴があったらしく、赤埴は香久山西北部で、白埴は西斜面で産した。 埴について |
神武東征 | 神武東征 | 葛木坐火雷神社(笛吹神社) | 天の石屋戸山 |
大官大寺 | 大神神社笹ゆり | 大嘗祭 | 泣沢女神 |
天石屋戸前に集える神 |
「哭(泣)沢の杜に三輪すえ祈れども我が王(おおきみ)は高日しらぬ」 万葉集巻2-202の 伝 桧隈女王 哭沢の杜に神酒を供え、回復を祈ったけれども、 その甲斐なく高市皇子はお亡くなりになった。 恨みの万葉歌碑とも呼ばれている。哭(泣)沢の女神⇒⇒⇒ この当時延命の神として信仰されていた。 |
畝尾都多本神社(うねおつたもと・地図)泣沢神を祭神とする。 境内地は泣沢杜(なきさわのもり)と呼ばれた。1m余りの石積みの井戸を御神体とされ、 延命の神とされる。拝殿奥の禁足地に石玉垣、さらに板塀の神垣に囲われて鎮まります。 香具山の西麓の小高い処にあり、森林を本体とし、拝殿のみあって本殿は無く、北方は一段低くなって、 当時の埴安の池の一部をなしていると推定される。この神は埴安の池の水神で、その水源の地に祭られ、 涙によって成ったという伝説を有しているのである。境内には末社の八幡神社が鎮座している。
『古事記』によれば、男神のイザナキノミコトと女神のイザナミノミコトが日 たと記されます。イザナキは妻の遺体にすがって泣き伏しました。その涙から 生まれた泣沢女神が、数々の神話伝承が残る香具山の西の麓、畝尾都多本 神社に祀られます。 涙から生まれた女神のご神体は井戸。拝殿奥の禁足地に石玉垣、さらに板 塀の神垣に囲われて鎮まります。 江戸期の国学者、本居宣長は『古事記伝』にて「水神」「人命を祈る神」、平田篤 胤は「命乞いの神」と称するなど、水の神、延命の神として古代より信仰を集 めてきました。「啼澤の杜(なきさわのもり)」と呼ばれる緑深い境内には、この神社に皇子の延 命を祈ったが叶えられなかったという,桧隈女王の万葉歌碑も残ります。この 当時、すでに延命の神として信仰されていたことがうかがえ、「恨みの万葉歌 碑」とも呼ばれています。 |
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香具山の畝傍の木の本の神、森にいらっしゃる神。 井戸が神聖視されて「神社」となった例 古代の「神社」(もり) かれここに伊邪那岐の命の詔(の)りたまはく、 子の とのりたまひて、 御涙に成りませる神は、 かれその |
泣澤女の神の杜の碑 |
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