二上山 當麻寺地図

   
 東塔(国宝)
 
 西塔(国宝)
 二上山のこんもりとした樹影を背景に静かなたたずまいを見せている。
 用明天皇の皇子麻呂子王が推古天皇20年(612)に河内に建てた万宝蔵院に始まり、
その後天武天皇白鳳11年(681)に麻呂子王の孫當麻国見が現在地に移して、
この地方の豪族當麻氏の氏寺として整備したと伝えられる。
 金堂、講堂が南北に一直線に並び、金堂の南方両側に東西二つの三重塔が建ち、さらに本堂、薬師堂、
仁王門などが独特の伽藍配置で建ち並んでいる。特に古代に建立された東西両塔が完備している姿は有名。
 宗旨としては初め三論宗を奉じていたが弘法大師が参籠してから真言宗にかわり、
鎌倉時代には浄土宗の霊場ともなり、
以後現在まで真言浄土の二宗を倂立し八ヵ寺の塔頭(寺院)よりなる珍しい形になっている。
 金堂にある弥勒仏座像や日本最古の梵鐘をはじめ数多くの貴重な寺宝を伝えている。 
 二上山の麓、大和と河内を結ぶ要路にある当麻寺は地元豪族の当麻氏の氏寺として7世紀後半の白鳳時代に創建された。
西塔
 西南院仏塔として西塔が配置されている。三重まで三間あり、三層、桧皮葺、朱塗。
 東塔に比べずんぐりしている。  
 平安時代の建築。 
 
 當麻寺西塔の心柱から発見された入れ子式舎利器
當麻寺西塔⇒
           
東塔
 初重のみを三間とし、二重、三重は二間にしてある。
 軒下の構造は三段階になった三手先斗栱(みてさきときょう)になっており、奈良時代に完成した。斜めに突き出た尾垂木(おだるき)も見える。
 西塔と同じく、相輪は八輪で、水煙は魚骨形の特異な意匠は珍しい。
 天平時代の建築。
古代の東塔と西塔が揃って残る唯一の寺院。  
 国宝の仏塔一覧 竹之内街道 角刺神社  
 
 仁王門⇒
 
 本堂(曼荼羅堂・国宝)⇒
日本最古梵鐘(国宝)白鳳時代
本尊 当麻曼荼羅
 曼荼羅は阿弥陀如来の極楽浄土の様子をあらわす、約4m四方の掛幅(かけふく)。天平宝字7年(763)、
一人の高貴な姫(奈良時代の貴族の娘・中将姫)の極楽往生を願う思いによって織りあらわされた曼荼羅と
される。(蓮糸で一夜にして織ったという伝承が歌舞伎にもなって知られている。) ⇒⇒⇒
 本堂と仁王門とは西ー東線上にあり、南に金堂(左)北に講堂(右)が配置されている。 
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 金堂(重文)  講堂(重文)  石灯籠(重文)
 金堂には、最も中心的な堂で弥勒菩薩座像(国宝)が安置され、弥勒仏の四隅に四天王立像(重文)
(東方時国天、南方増長天、西方広目天、北方多聞天)が配置されている。
 当麻寺の四天王像は、飛鳥時代の乾漆像で、四天王像としては法隆寺のものに次いで日本で2番目に古いものである。
 四天王は本来東西南北の守護神であるが、飛鳥、奈良時代の寺院はほとんど南に面して建てられるので、
四天王像は実際の方向をずらし、須弥壇の四隅に安置されている。他の奈良の寺院でも同じである。
 本堂は東を正面にして立つ。西方浄土を意識して本堂の中軸線は東西方向になっている。
一方、金堂は南が正面、東南に東塔、西南に西塔と三重塔2基が立つ。当初の当麻寺は薬師寺式伽藍で、中軸線は南北方向だった。
 日本最古の石灯籠で白鳳時代のもの。二上山凝灰岩で作られている。火袋は失われて木製である。
 當麻寺・弥勒菩薩坐像     

参道
     
当麻のけはや餅、けはやだんご。
  相撲 
神魂神社 野見宿祢   垂仁天皇  
相撲神社    


中将姫

 
 中将姫⇒
 
 練り供養会式 ポスターより
練り供養会式
 4月14日に、国宝曼荼羅を一晩で織り上げた伝説で知られる中将姫が、菩薩に導かれて
西方浄土へ向かう伝統行事が行われる。
 本堂を西方浄土に、娑婆堂を人間界に見立て、堂の間に長さ約110mの板の「来迎橋」を
設置する。
 信者らが仮面をつけて菩薩にに扮し、中将姫を迎えに本堂から娑婆堂へ。姫の像を乗せて
ゆっくりと引き返し、西方浄土へ導く。
 西日を受けて輝く荘厳な行列となる。  ⇒⇒⇒
謡曲「当麻」と中将姫

 謡曲「当麻」は、当麻曼荼羅の縁起に基づいて念仏の功力を説いた曲である。

 聖武天皇の御代、横佩右大臣の姫は称讃浄土経千巻を当麻寺に納めて尼となった。

この世て生身の阿弥陀如来を拝まさせ給えと一心不乱に祈願をこめ続けた。その祈念の

心に感じた阿弥陀如来と観世音菩薩は化屈「化女の仮の姿となって現われ、蓮糸を引き出し

つつ長さ一丈五尺の曼荼羅の織り上げを助けたのであった。目のあたりに如来の御姿を拝
した姫は、称名の教えの尊さと見仏法のありがたさに、法如比血尼と改名し、亡き人々の菩

提を弔い念仏三昧の生涯を送ったという。

 足利時代、世阿弥は尼の名を中将姫として謡曲「当麻」を作曲し、今日に到っている。

  謠曲史跡保存会

中将姫物語 (あらすじ)

 奈良時代後半の右大臣藤原豊成の娘として生まれた中将姫は、美しく清らかな心をもつ女
性であった。しかし実母の死後継母に疎まれ山中で殺害されそうになる。純粋な中将姫は助
けられ山中で育つが、偶然父と再会し都に戻る。

 その後姫は當麻寺で出家。 極楽浄土に生まれることを夢みていると、阿弥陀如来と観音菩
薩の化身が現れ、蓮糸で當麻曼荼羅を織りあげ中将姫に極楽の姿を示す。

 そして中将姫は29歳のとき阿弥陀の来迎を受け無事極楽へ往生する。

 ここで極楽浄土の様子を、蓮糸で綴織當麻曼荼羅(つづれおり・国宝)を一晩で織った。
中将姫を西方浄土へお送る様子を再現する「練り供養会式」が5月14日に営まれる。
平安時代から続く伝統行事である。
 写真の木像は高さ73cm、永禄元年(1558)の作で、寺の本堂の厨子に安置されている。
白い布を頭にかぶっており、顔の見える部分が逆三角形で、一重の目元がきりりとしている。
顔立ちはやさしい。
 ・糸を染めた石光寺 
 ・蓮糸をとる池は忍海角刺神社の鏡池

奥の院

由緒

 當麻寺は、用明天皇第三皇子麻呂子親王が御兄聖徳

太子の教により創建された寺で、中将姫の當麻曼陀羅

天平時代の東西両塔·日本最古の白鳳時代の梵鐘や

石燈籠などで知られています。

 その當麻寺塔頭奥院は浄土宗総本山知恩院の「奥

之院」として建立された寺で、最初は往生院と呼ば

れていました。知恩院第十二代誓阿普観上人が、知

恩院の御本尊として安置されていた法然上人像(重文)

を、後光厳天皇の勅許を得て応安三年(1370) 、当

地に遷座して建立した寺で爾来、浄土宗の大和本山

として多くの人々の信仰を集め、今日まで護持継承

されて来た名刹です。

 本堂、大方丈、楼門(以上重文) 、阿弥陀堂、庫裡等、

今に残る伽藍に往古の宗教活動の偉大さがうかがわ

れます。 

   

『大方丈』重要文化財(桃山時代)

 當麻寺奥院を構成する主要な建造物で、方丈とは住職の居所という意味。棟札から慶長17年(1612)の建立と

分かる

 寄棟造·瓦葺の木造建築で桁行六間,梁間五間半の規模を誇る。南正面には一間幅の広縁を配し、東と北には

落縁を廻らす。内部には12畳間×3、6畳間×3の計6間があり、各々が襖で仕切られている。西側を上之間と

し床の間が設けられている。上之間12畳(鶴之間)には江戸時代狩野派の絵師によって唐の玄宗皇帝と楊貴妃

の物語を描き、上之間6畳(白鷹之間)には水墨画が描かれている。

 昔、中の間6畳(扇面之間)は仏間として本尊が祀られていた痕跡が残り、格天井で他の間とは格式を分けて

いる。ここに牡丹の絵天井が描かれていることから、奥院第57世観誉上人が仏に供える花として牡丹を植樹し

たことから生育が盛んとなり、現在「牡丹の當麻寺」と呼ばれるほどとなった。 

   

『花鳥浄土 Ka-Cho-Jo-Do』

 平成30年秋、日本画家で国の文化功労者である上村淳之画伯によって奉納された。

 6間をそれぞれ「鶴」「四季花鳥」「四季水辺「白鷹」「扇面」「蓮池」と題し、30枚の襖に

60面の絵から構成され、日本の美しい自然が多様な鳥の姿と共に表現される。そして本作

品は日本画を日本の伝統「染色技法」によって描くという画期的なプロジェクトでもある。

絵具で描くのではなく、日本画の繊細な色彩を、卓越した蝋纈染の技術で表現している。

   
 方丈庭園『二河白道之庭』  
方丈庭園『二河白道之庭』

 大方丈の南側には二河白道之庭がある。

 「二河白道」とは唐の善導大師が念仏信仰を譬えた説話で、水河(白砂)は貪り、火河(金剛砂)

は怒りを象徴し、人間が生まれながらに持つ二大煩悩の恐ろしさを表している。中央の石道は念仏

を信じ行ずる心を白道として、迷いの娑婆世界(東側)と悟りの極楽浄土(西側)を表現している。

 昭和の名庭師中根金作師によって作庭された。

   
 奥院本堂(重文・桃山時代・御影堂)  阿弥陀堂(納骨堂)
     
 奥院楼門(重文・江戸時代初期・奥院正門)    
     
   
  動画    當麻寺奥の院⇒⇒⇒ 
 全動画⇒⇒⇒ 

綴織当麻曼荼羅(つづれおりたいままんだら:国宝)

 貴族の娘がハスの糸で織りあげたという伝説をもつ。
 縦、横各約4mもの繊維作品を修理する手立てが見つかっていない。
 極楽浄土の姿をつづれ織りで表し、天平宝字7年(763)の制作と伝わる。
 極楽浄土を願った貴族の娘中将姫が織ったとの伝説や鎌倉時代以降の浄土教の広まりに伴い、いくつもの写しが造られた。
 8世紀にさかのぼるつづれ織りは世界でも例がないとされる。
 江戸時代延宝5年(1677)に板張りから掛軸に仕立て直して以降、修理の記録がない。つつれ織りが残るのは全体の4割
と言われ、往時の豪華な色彩を失って全体が赤茶けている。 

竹之内街道⇒⇒⇒



















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